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越谷レイクタウンって何ですか?(土地改良記念碑)

越谷レイクタウンが開かれたのは2008年のこと。その遥か昔のドラマを伝える碑がひっそりと立っています。

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その名は「土地改良記念碑」。私立叡明高等学校とJR武蔵野線の間に建てられています。

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立派な一枚岩の石碑です。タイトルのみが大きく書かれていて内容はわかりませんね。
でも実は裏側があるのです。

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夏休みの自由研究みたいですが、ここはひとつ気合を入れて碑文を読み解いてみましょう。

大相模土地改良区の地域には旧大相模村の六部?と旧川柳村 旧蒲生村の一部を包含した地域で西は東京葛西用水路 南は草加市 東は県道平方東京線を境とし中川を挟んで吉川町に接する 北はおよそ県道越谷・吉川線を境としほぼ正方形の平坦な地域で葛西用水路より取水する八条用水路が流水灌漑 中川 元荒川 古綾瀬川により排水されて来たが道路及び水路の断面不均一屈曲は甚だしく系統的に配置されていないため農耕に悩み耕地整理は久しきに亘っての念願であったが昭和三十一年土地改良設立発起人会が発足し農業を行うための基盤を整備するため道路及び用排水路の整理統合を図り食料増産はもとより営農労力の節減により農業経営の合理化を進めることについて関係各位の賛同を得たので大相模土地改良区を設立昭和三十二年五月二十五日埼第二六四号を以って知事の認可を受け工事は団体営補助事業として昭和三十二年より昭和三十八年まで七年間に及び区域面積は七七四ヘクタール 工事費壱億壱千余萬円 内県補助金三千弐百余萬円 総就労人員一三萬七千余人を以って完成 方形の美田と化し所?の目的を達成した

 昭和四十五年二月十一日換地会議を開催昭和四十五年六月三十日に県告示七七〇号により
換地計画の認可告示となった 同時に行政区画土地の名称変更によって大字 字を改めて
町 丁目の呼称にして昭和四十八年十月八日換地処分が全て完了した
 この間土地改良事業実施中昭和三十五年大字見田方の地域に約一三〇〇年前の古墳時代後期の土器が発見せられこの地に人々が生活し集落が形成されていたことが立証されたので未来に傳えて明らかにするため見田方遺跡公園が設置された 昭和三十九年武蔵野線 昭和四十三年貨物駅の田地買取が進められ昭和四十八年四月一日に開通し営業が開始された 昭和四十五年十二月二十八日都市計画法に基づく事業として越谷流通業務団地敷地面積として七二ヘクタールが決定され日本住宅公団及び埼玉県により昭和四十六年団地の買取行われ現在工事が進行中である 昭和四十八年越谷市に三つ目の高等学校を新設することになり川柳町六丁目地内にこの誘致を図った結果 昭和四十九年四月埼玉県立越谷南高等学校が開校された
 ?に土地改良事業開始以来これまでの関係者各位の努力と苦労を偲び 越谷市当局の好意により見田方遺跡公園にこの碑を建立して後世に傳え郷土の資といたしたい
昭和五十年二月十一日 建之
理事長 中村喜久三 

超要約すると・・・

この土地には昔、あまり整備されていない田んぼが広がっていました。大変苦労をして区画整理された美しい田んぼへの工事が完了しました。そしたらその最中に古墳時代の遺跡が見つかったのでそこに「見田方遺跡公園」をつくりました。武蔵野線も開通しました。「越谷流通団地」も今作っています。「越谷南高校」も開校しました。
みなさん頑張ったので記念碑を「見田方遺跡公園」に建てて、のちの人々に伝えます。

ということです。 

先達の情熱がひしひしと伝わってきます。皮肉なことに、この碑ができた頃には日本も飽食の時代へと様変わりし、東京のベッドタウンとして発展する越谷市には、田んぼよりも住宅地が求められるようになっていました。その後は田んぼが埋め立てられて宅地に変わっていくストーリは全国に星の数ほどありますけど、その点、越谷レイクタウンは一味違ってました。治水のための水辺を維持しつつ、潤いのある街づくりを目指したのは、慧眼だったのではないでしょうか。

見田方遺跡公園(現在の越谷レイクタウン駅前の広場)に建てられた石碑は、新しい時代に追いやられるように今の地に移りましたが、今もこの地域の行く末をそっと見守ってくれているような気がしてなりません。

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美しい北池の夏の夕暮れ。



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